40年前から、ある日本人のために毎年慰霊祭を行う台湾の老人。その感動の理由に魂が揺さぶられる・・

現在、台湾でコンサルティング業を営まれる渡邊崇之さん(45歳)が台湾人の劉維添(りゅう・いてん)さんに出会ったのは2008年の初夏のことでした。 「今日はわざわざ台北より渡邊さんがお越しになられました」当時86歳だった劉維添さんは、台湾北部・獅頭山にある権化堂と呼ばれる寺院にある位牌の前で手を合わせていました。

この位牌は、第二次世界大戦中・台湾総督府警部として海軍巡査隊を率いた廣枝音右衛門(ひろえだ・おとえもん)さんを祀るものです。劉さんが彼の位牌に向かって語りかけていたのには、深い理由があります。

劉維添さん(右)と渡邊崇之さん(左)

1943年、大平洋戦争中のフィリピン・マニラで劉さんは、志願兵として海軍巡査隊に入隊します。時を同じくして、日本海軍は戦争の拡大により占領地の治安部隊である海軍巡査隊を編成。総指揮官として任命されたのが、廣枝音右衛門さんでした。廣枝さんは、聡明で優しい人柄から部下に慕われていたそうです。そして同年、台湾出身の警官2000名を中心に編成された巡査隊を率いて、マニラ南部・カヴィテに出征します。

2年後の1945年、フィリピンの首都・マニラで後に「マニラの戦い」と呼ばれる日本軍と連合軍の大規模な市街戦が行われました。兵力と物量で遥かに凌駕するアメリカ軍を前に、絶体絶命のピンチに陥った日本軍・・・。万策尽きた軍司令部が下した命令は、筆舌に尽くしがたい壮絶なものでした。

窮地に陥った日本海軍マニラ防衛隊はイントラムス要塞に全軍を招集すると、棒地雷などを配り、敵戦車への体当たりの命令を下したのです。地雷を持って戦車に体当たりする、つまり玉砕命令でした。通常軍部の命令は絶対ですが、ここで廣枝隊長は驚くべき行動に出ます。

太平洋戦争の戦局を予見していた廣枝隊長は、劉さんが所属していた部隊にこう宣言します。

「此の期に及び玉砕するは真に犬死如(し)かず。君たちは父母兄弟の待つ主地・台湾へ生還し、その再建に努めよ。責任は此の隊長が執る」

そう言って隊長は自身の頭に拳銃をあて2発うち、自決。廣枝隊長は軍部の玉砕命令を無視し、部下の命を救う代わりに自らの命を絶ったのです。

隊長の言葉には、「米軍に投降してでも、とにかく生き延びて国に帰ってほしい」そういった想いが込められていたのではないか。無事生還した劉さんは、のちにそう語っていたそうです。

戦後、廣枝隊長の部下であった台湾人警官らによって結成された元台湾新竹州警友会は、1976年に台湾仏教の聖地である獅頭山に隊長の位牌を祀り、それ以降、毎年慰霊祭が執り行われています。

2007年からは、隊長に命を救ってもらった台湾人警官の最後の生存者となった劉維添さんが、毎年1度も欠かさず、たった1人で慰霊祭を続けました。身を挺して部下である自分の命を守ってくれた廣枝隊長への感謝の気持ちを、劉さんが忘れることは決してありませんでした。

2013年9月21日の慰霊祭当日の深夜、劉維添さんは自宅近くの病院で亡くなり、廣枝隊長の元へ旅立ちました。劉さんの想いは現在、台湾在住の渡邊さんへと受け継がれ、毎年恒例の慰霊祭に参加する人の数も年々増えているそうです。

アジア各国で多数の犠牲者を生んだ、第二次世界大戦。1990年度に厚生労働省が発表したデータによると、3万人を超える台湾人が太平洋戦争で日本兵として戦場に散っていきました。廣枝隊長の最後の戦場となったマニラ市も、戦火によって建物の大半は破壊され、廃墟と化しました。そう言った事実もまた、廣枝隊長の話同様、決して風化させてはならないものではないでしょうか。